それからの宮沢賢治館 宮沢賢治エピソードU

                 
写真:安東〜最もつらかった津軽の父の葬式にて 2006年12月

父母、弟妹への遺書 〜1931年9月21日


父上様 母上様


この一生の間
どこのどんな子供も受けないやうな
厚いご恩をいたゞきながら、
いつも我慢でお心に背き
たうたうこんなことになりました。
今生で万分一も
ついにお返しできませんでした
ご恩はきっと次の生
又その次の生でご報じいたしたいと
それのみを念願いたします。

どうかご信仰といふのではなくても
お題目で私をお呼びだしください。
そのお題目で
絶えずおわび申しあげお答へいたします。

  九月廿一日

父上様
母上様         賢治




清六様

たうたう一生何ひとつお役に立てず
ご心配ご迷惑ばかり掛けてしまひました。

どうかこの我儘者をお赦しください。

  清六様                      賢治
  しげ様
  主計様
  くに様



9月27日、賢治は東京から花巻の父へ電話をかけます。
「もう私も終わりと思います。
それで最後にお父さんのお声がききたくなりました。」
その後、父は息子を花巻にもどし、賢治は実家で病臥すること になります。
そこには親思い、家族思いの強い賢治の姿がうかがえます。

仏教の輪廻思想を信じていた賢治は
縁あって親と子、兄弟として生まれてきた奇跡に感謝し
その一瞬一瞬をいとおしく誠実に生きたのです。

それから二年後の昭和8年、東京で遺書を書いた日と同じ日に
賢治は急性肺炎で亡くなります。享年37歳。
この遺書は賢治の死後しばらくたって、
弟・清六さんに託された兄・賢治のトランクから
「雨ニモマケズ手帳」と共に発見されました。



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 BY JOVANNI ANDO
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