それからの宮沢賢治館 宮沢賢治エピソードT



 ★宮沢賢治の生涯                                              「献 花」
  1896年(明治29年)8月27日生まれ
  1933年(昭和8年) 9月21日37歳で他界

●宮沢賢治の家系

 ★父:宮沢政次郎(1874〜1957)  ★母:イチ(1877〜1963)

 兄弟姉妹 ★トシ(1898〜1922) ★シゲ(1901〜1987) ★清六(1904〜2001) ★クニ(1907〜1979)


●なぜ賢治は教師を辞めたのか?

 「この四ヵ年が わたくしにどんなに楽しかったか わたくしは毎日を 鳥のように教室でうたってくらした
  誓っていうが わたくしはこの仕事で 疲れをおぼえたことはない」(「生徒諸君に寄せる」より)
 賢治は教壇の上から農業知識を教えるだけでは満足せず、自ら農民となりて、よりよい農村社会、
 農民生活の向上を目指し、農民芸術を推し進めた。そして農民塾、羅須地人協会を設立し活動を始めた。

 ちなみに私が教師生活14年間を辞める最後の言葉は「情熱が無くなった。情熱が無くなった者は教職を去るべきだ。」
 賢治を尊敬し賢治に憧れて教師になった私だったが慣れぬ異郷の津軽の地で私の教師人生は終焉を迎えた。



●家族思いの賢治はやっぱりO型?

 花巻の羅須地人協会に賢治31歳は県職員の刈屋主計(かずえ)24歳を招待した。
 帰り際豊沢町の実家にも立ち寄らせて賢治の家族も彼をもてなした。
 そして賢治はいきなり「さっきお目にかけた妹のクニの婿になってくれませんか。」と主計に切り出した。
 長男賢治は家業を継がなかったが、自分の代わりに家業を支える男手を捜していたのだ。
 後に主計は妹クニと結婚し、弟清六の宮沢商店(建築材料、自動車部品販売業)の営業に力を貸した。
 家族思い、そしてせっかちで強引、天真爛漫、その行動ぶりは血液型O型人間の行動そのものであると
 私も感じる。(宮沢家はOかB型が多く、弟清六はO型。賢治の血液型は不明だがO型だと思われる)


 参考文献:「伯父は賢治」宮沢淳郎(妹クニの長男・富士大学助教授)著


●羅須地人協会時代以降のそれからの賢治

 教師を辞め、自ら芸術農民となりて羅須地人協会活動を行うが病に倒れ
 花巻の実家で療養生活を送っていた賢治
 そこに東山町の鈴木東蔵が現れ
 それからの最期の賢治(東北砕石工場技師・炭酸石灰肥料セールスマン時代)が
 はかなくも美しい線香花火のごとくに始まる

 昭和四年の春、朴訥そうな人が私の店に来て病床の兄に会いたいというので二階に通したが、
 この人は鈴木東蔵という方で、石灰岩を粉砕して肥料をつくる東北砕石工場主であった。
 兄はこの人と話しているうちに、全くこの人が好きになってしまったのであった。
 しかもこの人の工場は、かねて賢治の考えていた土地の改良には是非必要で、
 農村に安くて大事な肥料を供給することが出来るし、工場でも注文が少なくて困っているということで、
 どうしても手伝ってやりたくて致し方なくなった。
 そのため病床から広告文を書いて送ったり、工場の拡張をすすめたりしていたが、
 だんだん病気も快方に向かって来たので、その工場のために働く決心を固め、
 昭和六年の春からその東北砕石工場の技師として懸命に活動をはじめたのである
    〜宮澤清六著「兄のトランク」より


 賢治のふるさと花巻市民は賢治をこき使った東山時代を良く思ってはいない
 しかし賢治は使命感と情熱によって最期の自分の仕事を全うするのである
 それは理想を描き理想を自ら実践したギリシャの哲学者のような活躍であった
 されど菜食主義者賢治にはギリシャ聖人の強靭な身体はなく
 無理をした東京出張後、再び病に倒れてしまう


●「雨ニモマケズ」の背景

 おしまい、賢治の詩「雨ニモマケズ」に触れさせていただきます。
 実はこの詩が賢治作だと広く知られてはいるのですが、
 それが賢治最晩年の仕事、東北砕石工場技師時代の作であること、
 出張先東京で病の再発から重態におちいりやむなく帰宅した賢治が、
 熱悩にあえぎながら記した病床の作であること、
 しかもこの詩が求道者宮澤賢治の究極レベルにおける誓願
 (一切の衆生の苦しみを救おうと願い、必ずこれを成しとげようと誓うこと<仏語>)であることについてなど
 殆んど知られないままです。
 ということもあって、我が東山町がその情報発信に努め、
 この詩に込められた賢治の「病苦必死のねがい」の真意を、
 広く世にアピールしていかねばならないと認識しています。
 なおその上、詩人にして信仰の人、そして科学技術者であり農民の友であった賢治が、
 この「雨ニモマケズ」の詩に込めた精神をそのまま現実に生きたスガタ、
 それが東北砕石工場技師賢治の日常だったのだと思われてならないのです。
 そうでなければ、身を投げ出して工場のために奔走した技師賢治の生きざまを到底理解することが出来ない。
 それほどの菩薩行を技師賢治は生きたのだと考えています。
 どうか病床に苦しむ賢治と心を合せ、技師賢治の生きスガタに重ね合わせ、
 この「雨ニモマケズ」を二読、三読して下さいますようお願いいたします。


 〜石灰の残した文化遺産 
宮澤賢治と炭酸石灰(最終回)この土を この人たちが この石灰で‥伊藤良治 より


 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク
 決シテ瞋ラズ
 イツモシヅカニワラツテイル
 一日ニ玄米四合ト
 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
 アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ入レズニ
 ヨクミキキシワカリ
 ソシテワスレズ
 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
 小サナ萱ブキ小屋ニイテ
 東ニ病気ノ子供アレバ
 行ツテ看病シテヤリ
 西ニ疲レタ母アレバ
 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
 南ニ死ニソウナ人アレバ
 行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
 北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイヒ
 ヒデリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイウモノニ
 ワタシハナリタイ


   南無無邊行菩薩
   南無上行菩薩
  南無多寳如来
 南 無 妙 法 蓮 華 経
  南無釈迦牟尼佛
   南無浄行菩薩
   南無安立行菩薩
       1931年(昭和6年)11月3日 宮沢賢治


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 BY JOVANNI ANDO
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