それからのジョヴァンニ
賢治の心友、山梨県韮崎市出身、保阪嘉内
開運なんでも鑑定団(再放送)で宮沢賢治の親友・保阪嘉内の息子さんである
保坂庸夫(80歳医師)さんが父宛ての賢治の手紙73通を鑑定
ご本人は1億円と言われたら、観客席から「エ〜!」と言うブーイングに近い声
しかし鑑定結果は驚きの、イヤ納得の1億8千万円だった
「明治以降の近代文学史の中にあって超一級の資料となるべきもの。
葉書1枚が120万から280万の評価。
書は200万から600万の評価となる。
生原稿なら4〜5枚で1000万の評価となる。」
以上鑑定団サイト(賢治手紙)より
そして手紙の一部が紹介された
保阪の母が亡くなったお悔やみの手紙には
「南無妙法蓮華経」とたくさんたくさん書かれていた
賢治の手紙も原稿もいつもは書きなぐるような私と同じ
「きたなすね〜」字なのだが
「南無妙法蓮華経」は魂が込められた平泉中尊寺の国宝の金銀字お経のように
きれいで清らかな字体であった
保阪の一生(賢治死後まもなく40歳で癌で亡くなる)をまとめたビデオも放映され
ずっと涙でウルウル状態になってしまった
〜2008年10月25日安東ブログより
詩や童話に独自の世界を切り開いた宮沢賢治
その親友保阪嘉内は、一八九六(明治二十九)年
山梨県韮崎市(当時北巨摩郡駒井村)に生まれ
岩手県盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)で賢治と出会った
同い年の二人は共に学び、同人誌を出し、夢を語り合い
学生時代に培った農業への理想を胸にそれぞれの道を歩む
当時流行していた社会主義的な保阪は
宗教では貧しい農民は救えないとし
国柱会入信を執拗に勧める法華経信者・賢治と
ついには絶交状態になる
それでも道は違えども、二人が目指したものは同じだったと思う
親友保阪や内村鑑三の愛弟子・斎藤宗次郎ら
キリスト信者との出会い、
亡き妹トシへの思い、
それが賢治の大作「銀河鉄道の夜」につながっていった
親友カムパネルラに語った「どこまでもいっしょに行こう」
それは絶縁した親友・保阪嘉内への
賢治ジョヴァンニの言葉でもあった
その後、新聞記者、農村指導者として生きた保阪は
自分の息子らに「グスコーブドリの伝記」を読みきかせていたそうだ
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