それからの宮沢賢治館
宮沢賢治
18961933の職業歴



 花巻市文化会館〜2009年8月、甲子園での花巻東高(現代の宮沢賢治!?菊池雄星投手)を地元で応援


宮沢賢治は一般的に「詩人、童話作家、教師、農業指導家、地質学者」と言われます。

・裕福な質屋の長男として生まれた賢治は凶作に苦しむ貧しい農民の姿を見て育つ。

・現在の盛岡一高を卒業した後、花巻の父の店番をするが職が合わず、父は進学を許す。


・現在の岩手大学農学部に首席で入学、卒業後、研究生として残る。童話の創作始める。


・上京し国柱会(法華宗)に入信、謄写版制作の職につきながら街頭布教、童話を書く。


・妹トシ発病のため岩手に帰郷し、現在の
花巻農業高校教師となる(4年半勤務)。

・教師時代に詩集「春と修羅」、童話「注文の多い料理店」を自費出版するが売れず。


・教師退職後、羅須地人協会設立、自ら農民生活をしながら農業指導、農民芸術を説く。


・農業指導の過労で倒れ、実家で2年間療養生活。


東北砕石工場技師(一関市東山町)となり石灰肥料のセールスマンとして飛び回る。

・出張先の東京で倒れ、また実家で療養生活。手帳に「雨ニモマケズ」を記す。


・急性肺炎で死去する前日まで農民から肥料の相談を受けていた。



当時、地元花巻の人々には、賢治の姿は、狂信的な新興宗教信者、
金持ちの坊ちゃんが遊びで農民のまねっこしてる変人?としか見えなかった。
賢治は職業人としては挫折の連続で失格者だったかもしれない。
親の深い愛情と経済的な支えがなければ生きることさえできなかった。
しかし彼の死後、賢治の志を理解していた家族や友人の労力により賢治の遺作が出版され、
全国に彼の偉業が広まっていった。
一時絶交した山梨の保阪嘉内や音楽教師だった紫波町の藤原嘉藤治も
親友賢治の精神(グスコーブトリの伝記)を開拓者として受け継いでいきました。

賢治の一生は、死後世界的に有名になったオランダの画家ゴッホを思わせます。
生前様々な職に就くも失敗し、理解されず、ほとんど絵が売れず、弟の仕送りで生活していたゴッホ。
兄の才能を信じた弟テオ夫妻により死後ゴッホの絵は世界的人気を博します。


金を稼がなければ生きていけない人間社会にあって、より金になる職業にいかに就くか?
もちろん大切なことだし、また金を度外視してまでも隣人のためにどんな生き方をし、どんな活動をして逝ったか、
その人の一生の意義、価値が死後にわかるのです。


以上「MK高1学年 社会人のタネの育て方その2資料(2009.11.19)それからの宮沢賢治を夢見て 講師:安東」より


◆それからの宮沢賢治館◆宮沢賢治の職業歴

 BY JOVANNI ANDO
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