それからの宮沢賢治館 映画「宮沢賢治〜その愛」を見て

 水沢のツタヤレンタビ95円ということでむりやり借りてきた
 けっこう前の映画(96年)で借りよう借りようと思って見逃してた映画だった
 賢治生誕100周年に2つの映画ができて
 私は緒形直人の方の賢治映画を選んで見ていた

 今日見たのは松竹映画で三上博史が主人公の方の映画だ
 なぜか何気ないシーンなのに最初から泣けてきた
 NHK「大地の子」以上の涙を流してしまった
 また仲代達矢(賢治父役)の名演技に泣かされた
 こちらの映画の方が配役がぴったり、私の好きな俳優ばかりでハマッてしまった
 三上賢治はかっこよかった
 岩手の大自然も美しく描写されていた
 賢治の弟の清六さんが映画に協力しただけにリアルだった
 自称賢治研究家のくせに初めて知ったことも多かった
 そうだったのか〜盛岡中学の先輩石川啄木はもう亡くなってたのか
 賢治の父母はとても愛情深く描かれていた
 長男なのに父の言うことを聞かず突っ走ってしまった賢治
 親不孝をわびる遺書を書く賢治

 映画には3人の女性が出てきた
 賢治18歳、初恋の看護婦・高橋ミネ
 求愛された女教師・高瀬露(役:牧瀬里穂〜可哀想だった)
 そして最後は水沢の豪農、伊藤七雄氏に紹介された妹チエであった
 伊豆大島の浜辺での賢治とチエ(役:中山忍)の
 夕暮れデートはとても美しいシーンだった
 病に倒れた賢治は彼女の手紙に暖かくなったら会いましょうと返事を書く
 そして間もなくして賢治は37歳の短い生涯を終える
 この歳になってやっと賢治のことがわかったなんて自分が情けない限りだ

 伊藤兄と彼女は正義感ある崇高な人だったそうだ
 伊藤氏は関東大震災の混乱時に朝鮮人をかくまったという
 妹のチエも貧しい人のために尽くし、最後は病をわずらい自殺したという
 賢治が結婚してもいいと思った人たち…
 もっと深く知りたいと思った
 映画の最後は賢治を拝みたくなる気持ちになった
 死んでも賢治は私たちにいつでも語りかけてきていると思った
 あまりにも自分が情けなく思った
 それからのジョヴァンニはどこへゆくんだらう… 2004.3.4 ジョヴァンニ安東



宮沢賢治〜その愛2  

 今日も賢治の映画ビデオを真夜中に見た
 ネットをやる気分になれずまた賢治に会いたくなった
 印象に残った言葉を挙げてみたい

●家出した息子に会いに東京に来た賢治の父の言葉
 宗教のことはそのうち話すべ
 おめは自分というものを人に認めさせたいならば
 人のやるごとも認めねばわがんねんだな
 花巻さけえべ(帰るべ)

 この映画のテーマの一つは父と子の永遠の関係、姿だと思う
 聖書の放蕩息子の話も好きだが
 賢治と父のこの話も心に響いた
 私も高校時代、東京の大学時代から最近まで
 散々親を泣かせてきた親不孝者だから
 哀れな父の愛情に泣けてくる
 賢治の父に対する言葉遣いや態度は大変立派で
 今では考えられない理想的な姿だと思う
 息子を立てる母(役:八千草薫)のやさしき姿も理想的だった

●音楽教師の親友藤原氏と最期の病床の賢治の会話
 禁欲は結局何もならねがった
 羅須地人協会も何にもならね

 何かになったんじゃありませんか

 書げでえものはたくさんあった
 もうだめだ
 草や木や自然を書ぐように
 女の愛について書いでみでえなあ

 映画では法華経の道を実践し禁欲生活をする賢治が
 性欲と戦った姿を描いていた
 たまらなくなったら独りで大声を出して外をかけめくる

 男にとって性欲は大きなハンディであり
 また生きる力の原動力でもある
 その破壊力をいかにコントロールするかが永遠の課題だろう
 女性の毎月の憂鬱な生理以上に男にはつらいものなのだ

 クリスチャンの小学校女教師の追っかけ愛情を拒絶し
 親友藤原氏の結婚の勧めを断った賢治
 性欲は思考と労働の妨げとなると言ったが
 本当の賢治の真意はわからない

 岩手の水沢から暖かい伊豆大島へ移住した伊藤兄妹へ
 会いに行った賢治が大島を去る船での姿はあまりにも切なかった

 もう二度と最後に恋した伊藤チカとは会えないのか
 もし賢治が勧め通り暖かい地で農業の指導をしながら
 伊藤チカと結婚生活を送っていたならもっと幸せで長生きできたかもしれない
 だが賢治は宣教師ゴッホのごとく
 故郷の貧しい岩手の農民とともに最後まで独りで生きた

 人は恋すれば皆詩人となる
 芸術家となる

 病気で若くして亡くなった愛する妹トシを思い
 銀河鉄道の夜を描いた賢治
 親友カムパネルラは賢治にとって妹トシだったかもしれない
 他の友人や恋する人だったかもしれない
 人のために命を捧げた悟りの人々だったかもしれない

 晩年、東磐井郡東山町の石灰工場の技師となり
 胆江地区(たんこうちく・胆沢郡・水沢市・江刺市)にも
 賢治が肥料のセールスで訪れていたという
 私が住む胆沢郡前沢町商店街の米屋さんに
 賢治の名刺と直筆の領収書が残っていて話題となり
 HPでも紹介されている (米屋ふくち 賢治の名刺)

 賢治の生涯は挫折の連続だったかもしれないが
 友人が言った通り「何かになった」と思う
 それは夢と希望と生きるわけを永遠に私たちに語りかけている
 2004.3.5 ジョヴァンニ安東

 
                                                             賢治の家「羅須地人協会」


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 BY JOVANNI ANDO
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