◆宮沢賢治エッセイT〜賢治を思う  2004.1.20 ジョヴァンニ安東


                                               津軽の父の葬式にて 2006年12月

 私は読書は嫌いな方だった
 難しい作り話、無駄な話は読む気がしない
 どちらかというとわかりやすい哲学や宗教、歴史、心理学、
 とにかく人生論の本をけっこう読んできた
 自分がすぐ落ち込みやすいので生きるわけが知りたかったし欲しかった
 日本人より外国人の本を読んできた

 宮沢賢治は中学生の美術の授業で恩師から話を聞いて好きになった
 やはり「銀河鉄道の夜」が一番好きで
 影絵作家藤城清治氏の劇団ジュヌパントルのその影絵劇を
 東京の大学時代、何度も一人で見た

 教師になってから美術の授業では何度もその物語絵の授業をやった
 藤城影絵本の短くしたその話を自分でテープに音楽付で録音し、それを聞かせ
 自家製のスライドを見せ、中学生に銀河鉄道の絵を描かせた
 小学校では影絵劇を毎年創作して発表し、
 銀河鉄道の夜のその後のそれからのジョヴァンニも描いた
 「海底都市イーハトーヴ それからのジョヴァンニ」
 私の劇、脚本は不完全なものだから、いつかもう少し整理して
 HPにアップしたいと思っている

 賢治も短い教師時代たくさんのユーモラスな創作劇を発表したそうだ
 そしてたくさんの作品を新聞や同人誌等に発表した
 出版社で断られ、自費出版もしている
 私も教師時代自費出版の準備をしていたが結局挫折したままになった
 今は様々なコンクールに作品を出して名を上げるより
 好き勝手にホームページにアップすることの方が
 一番自分のスタイルに合っていると思い
 自称サイバーゲージツ家を名乗っている

 賢治は膨大な詩や童話の原稿を世に出せぬまま早く世を去った
 そして彼が死んだ後、ゴッホのようにだんだんと認められるようになり
 たくさんの賢治ファンが彼を研究している
 弟の清六さんは、まさに誰にも顧みられなかったゴッホを支えた弟テオと同じ
 偉大なる貢献をしたと私は思う

 同じ同郷の石川啄木もひどい貧乏生活だったし生前は悲惨だった
 賢治も教師を辞めてから自ら貧乏生活に甘んじた
 身体を壊し、農民芸術活動としての羅須地人協会の志は挫折した
 しかし病気と闘いながらその後も多くの作品を残した

 彼の最期の地は私の生まれた一関市の隣の東磐井郡東山町だ
 肥料になる大きな石灰工場がある町で彼は技師として
 またセールスマンとして東京へも営業に行った
 そして彼は倒れた
 だから賢治の地元の花巻市民は今でも東山町の人達を少なからず恨んでいるそうだ
 無理をさせたということで…
 しかし賢治は自分がやっている仕事、石灰肥料こそ貧しい農民を救うと考え
 自分の信じた道をまっとうしたのだ
 急性肺炎で死ぬ前の日でさえ訪ねてきた隣人に快く農業のアドバイスをしている

 当時の彼は天才だったが、その行動は変人にも見えた
 日蓮の宗教活動もたくさんやった
 彼は死ぬ前にもっとエロについて書きたかったとこぼした
 エロとは男女の恋愛小説のことだ
 入院した時、看護婦に恋し結婚も考えたが親の反対で失恋した
 ある女性からも結婚したいほど好かれた
 だが賢治は断って結婚しなかった
 なぜあの時彼は結婚しなかったのだろうか
 いい人だったんじゃないか?
 私はそのことをとても悔やむ
 結婚していればもっともっと長生きしていただろう

 賢治の友人のこと等たくさんのエピソードが出版されている
 彼と関係のある人が生きていた時代は禁句だったが
 もう時は過ぎた
 聖人としての賢治を崩そうという動きもある
 彼はエロい浮世絵収集家だったとか
 しかし彼はそれを気高き芸術としてとらえていた
 倫理や道徳というものは時代とともに変わるものである
 賢治は生前真理を求めた人であり時代の慣習、道徳をも超越していたと思う

 多くの葛藤、悩みはもちろんあっただろう
 最も愛した妹トシの死は彼に暗い影を落とす
 しかし銀河鉄道の夜という名作はそうした中で生まれた
 多くの思いの足跡が詩や童話に永遠に刻まれたのだ

 まだまだ私は彼を理解できていない
 もっともっと研究していきたいと思う
 賢治を知ることが私の人生そのものなのだから


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